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ラ・フォルス監獄跡 La Force

「まだ国王のまわりに 忠誠を誓って残っていた最後の廷臣たちも 別々の牢獄にうつされることになり やがて彼らは 裁判もうけられず 民衆の手で虐殺されていったのである(九月虐殺・犠牲者約1200名)」―コミックス九巻

1792年9月3日から5日にかけて、マリー・アントワネットの親友でもあったランバール公妃をはじめここに収容されていた161人の人々が、パリの暴徒らによって虐殺されました。

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<九月虐殺>の現場になったラ・フォルス監獄の跡です。
牢獄はグラン・フォルスとプチ・フォルスに分けられていました。

暴徒らは虐殺されたランバール公妃の首を掲げてマリー・アントワネットらが幽閉されていたタンプル塔まで行進し、それを見たアントワネットが卒倒したといいます。
ランバール公妃は長年にわたりマリー・アントワネットと親しくしており、革命後も亡命せずに国王一家を救おうと奔走していました。ポリニャック夫人がいち早く亡命したのと実に対照的です。

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監獄は1845年に破却されて現存せず、パヴェ通り22番地に、おもに女性の囚人を収容していた監獄プチ・フォルスの一部が残ります。

【人物メモ】ランバール公夫人 (マリー・テレーズ・ルイーズ・ド・ サヴォワ・カリニャン、1749~1792)

「ジョゼフ 行ってきますよ 苦しくなったらすぐにランバー ル公夫人に言うのですよ」―マリー・アントワネット

サルディーニャ王国サヴォイア王家の一族であるサヴ ォイア・カリニャーノ親王家の第四女。
1767年にルイ 14世と愛妾モンテスパン夫人の曾孫ランバール公爵と結婚するが、わずか2年で夫と死別(死因は急性アルコール中毒)。
夫の死後は、マリー・アントワネットに仕え親交が深かった。のちポリニャック伯夫人の後任として宮廷女官長を勤め、王家の子供たちの養育係も勤めた。 才色兼美で王妃に忠実に仕えた。

革命の勃発により一時国外に亡命したが、王妃と運命を共にするために帰国。しかし民衆の暴動の際に捕らえられ、ラ・フォルス獄に幽閉後、1792年の<九月虐殺>の犠牲になった。死体は切り刻まれ無惨であった。その切断された首は槍に突き刺されて、タンプル塔に幽閉されていたアントワネットに届けられたという。遺体はマリー・アントワネットの墓のそばに葬られた。 ちなみにクルムホルツ(Krumpholtz)作曲の「ハープの為の六つのソナタ作品」はランバール公妃に献呈された。



最寄駅■Saint Paul


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